紙幣から学ぼう!フィリピン文化と歴史 1000ペソ編

ブログ「DIY English」の制作者「大葉かむ」です。
普段何気なく手にするフィリピンの1000ペソ紙幣、ところでみなさんは日本軍がフィリピンを占領していた時期があることはご存知ですか?
なぜ、このようなことを突然聞くかというと、1000ペソ紙幣に描かれた3人の人物が抗日の英雄として称えられており、その3人全員が日本軍によって処刑されたからです。
フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていたことで、日本軍の標的とされたわけですが、現地のフィリピン人にとっては他国間の戦争を自分たちの国で行われたということになります。それ以前もスペインとアメリカによる戦争が行われており、常に戦場地として被害を受けているのは地元住民のフィリピン人です。
今は戦争はなくなったものの、多くの国から企業がフィリピンに進出し、市場を食い荒らしているという事実もあります。経済成長が著しい首都マニラですが、まだまだ多くの闇を抱えているのです。
今回は、そんなフィリピンの1000ペソ紙幣から見えてくる歴史について説明したいと思います。テーマは以下の通りです。
1000ペソの表面
1000ペソの裏面
1. 1000ペソの表面

フィリピンの紙幣ですが、全てにおいて共通する印字部分があります。その共通部分については、20ペソの記事で説明していますので、そちらをご覧ください。
さて、1000ペソに描かれている肖像画ですが、3人もいます。上からホセ・アバド・サントス(José Abad Santos)、 真ん中がビセンチ・リム(Vicente Lim)、下がホセフア・リアーネス・エスコダ(Josefa Lianes Eskoda)です。
ホセは、1886年2月10日にパンパンガ州のサンフェルナンドで生まれます。
1899年から1902年にかけて米比戦争が勃発しますが、その後の1904年より彼はアメリカ本国に留学します。そして、1909年にジョージワシントン大学で法学修士号を取得します。その後は、1928年に司法長官、1932年に最高裁判所の陪席判事、そして1941年12月に最高裁判所長官に就任します。
なお、ホセは10人兄弟であり、その長男であるペドロ・アバド・サントス(Pedro Abad Santos)は、フィリピン社会党の創始者です。
しかし、この最高裁判所長官就任時に日本軍がフィリピンへの侵攻を開始したため、独立準備政府大統領のマニュエル・ケソン(Manuell Quezon)、アメリカ極東軍司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)と共に、コレヒドール島要塞に籠城することとなります。
最終的には、バターン半島の戦いで米比軍が日本軍に敗れることとなり、コレヒドール島要塞を放棄しケソンとマッカーサーは1942年3月にオーストラリアに脱出します。しかしこの時、ホセは同伴して脱出することを拒否し、フィリピン残留を決意します。この際に、ケソンよりフィリピン大統領代行に任命されます。
この残留決意により、1942年4月12日にセブ島にて息子のペピトと共に日本軍に捕縛される結果となります。そして、日本軍政への協力を求められたものの彼は拒否し、ミンダナオ島の南ラナオ州に連行された後、同年5月2日に日本軍により銃殺刑に処されます。
次に、ビセンチについてです。ビセンチは、米国国防大学を卒業した最初のフィリピン人です。彼は、日本軍侵攻の時に活躍をした将軍で、バターン死の行進を体験した後、日本軍によって処刑されています。
バターン死の行進とは、日本軍がフィリピンの侵攻作戦において、バターン半島の戦い後に日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜を捕虜収容所に移動する際に多数の死亡者を出した行進のことをいいます。
その距離は、全長で120kmにもおよびます。当初は、鉄道とトラックによって捕虜を運搬する予定が組み込まれていましたが、計画当初の捕虜数と実際の捕虜数に大きな違いが生じたため、100kmを超える道のりを捕虜に歩かせることとなりました。
さらに行進中の捕虜の待遇は、部隊ごとによって異なるものの、十分な食料や飲料は与えられず、十分な睡眠スペースも確保できなかったとされる証言があります。
事実、収容所にたどり着いたときには、約7万6千人にいた捕虜が約5万4千人に減少しており、1万人近い捕虜がマラリアや飢え、疲労、日本軍による処刑で死亡しています。
ただし、米軍の死亡者は2,300人と記録されているものの、監視兵が少なかったため逃亡が容易であり、フィリピン人に関しては現地の民衆に紛れ込んで脱走したものもいるとされています。
最後に、ホセフアについてです。彼女は、女性解放の先駆者であり、フィリピンガールスカウトの創設者でもあります。彼女もまた日本軍に協力を拒否したことで、処刑されています。
次に紙幣の左に印字されている
CENTENNIAL OF PHILIPPINE INDEPENDENCE 1998
フィリピン独立100周年
1998年
とそれに付随するイラストについてです。
フィリピン独立100周年
1998年にフィリピンは独立100周年を迎えており、記念として100ペソ紙幣と2000ペソ紙幣が発行されました。
2. 1000ペソの裏面

全ての紙幣に共通ですが、紙幣の両面には紙幣金額が分かるようにフィリピン語で印字がされており、1000ペソは
SANLIBONG PISO
1000ペソ
と印字されています。
そして、地図と一緒に真珠と海底の生き物たちが印刷され、地図のそばには
Tubbataha Reefs Natural Park
UNESCO World Heritage Site
トゥバタハリーフ国立海洋公園
ユネスコ世界遺産
と印字がされています。
トゥバタハリーフ国立海洋公園は、ミマロパ地方、パラワンの東、ノース・リーフとサウス・リーフという2つの岩礁と珊瑚礁を保護する目的で設置された海中公園です。地図の丸印で示されたスールー海が海洋公園の位置になります。
ユネスコ世界遺産への登録は、1993年でフィリピン初となります。
ただ、スールー海にボートが出られる時期が3月中旬から6月中旬までのわずか3ヶ月間となっています。これは、季節風による影響によるものです。さらに、ボートの数も限られているため、なかなか行けないスポットでもあります。

また、世界遺産に登録された国立海洋公園を維持するためという名目で入場料も高く、他のフィリピンの観光スポットと違いかなりのお金を必要とします。
なお、海底のイラストは海洋公園に合わせたイラストとなっています。
次にイラストの真珠ですが、
South Sea Pearl
Pinctada maxima
南洋真珠
と印字されています。
南洋真珠は、シロチョウガイ から産出する真珠で、主にオーストラリア、インドネシア、フィリピンで養殖されています。

また、2016年8月22日にパラワン島のプエルト・プリンセサで、世界最大とみられる重さ34キロの巨大真珠が公開されています。
大きさは横60センチ、縦30センチで、地元の漁師が10年前に発見しましたが、その価値に気付かぬまま「幸運のお守り」としてベッドの下にしまい込んでいたそうです。価値は日本円にして約108億円だそうです。
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