紙幣から学ぼう!フィリピン文化と歴史 200ペソ編

紙幣から学ぼう!フィリピン文化と歴史 200ペソ編

ブログ「DIY English」の制作者「大葉かむ」です。

経済は、お金と密接な関係があります。しかし現在において、それが全て目に見える通貨で取引が行われているわけではなく、数字の上でのみの移動や別の形、例えば証券や電子マネーなど、いろいろな姿を持っています。

それでも、社会が人と人との繋がりで成り立っている以上、通貨が早急に衰退してなくなるということはないでしょう。

特にクレジットカードなどのセキュリティ面でまだまだ問題があるフィリピンにおいて、通貨が主流であることは間違いないでしょう。

しかし、そんな中でもあまり必要とされない紙幣というものが存在します。日本においても、2000円札の存在意義が怪しいと思いませんか?事実、自動販売機ですら2000円に全て対応しきれていない状態で、現在は需要も供給も衰退の一途を辿っています。

まったく同じ存在がフィリピンにもあります。それが200ペソです。まず、紙幣が出回りません。そして、2000円札と同様に他の紙幣の利便性が高すぎて必要とされないのです。つまり、1000円札と5000円札の間を必要としないように、100ペソ札と500ペソ札の間も必要とされないのです。

物価から見た場合も、日本の500円がフィリピンの100ペソくらいに相当するため、2000円札と200ペソ札も近い位置にあり、親近感がわくというよりむしろ同一視できるほどです。

そんな、需要も供給もない200ペソについて、今回は説明します。200ペソのテーマについては、以下の通りです。
200ペソの表面
200ペソの裏面

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1. 200ペソの表面

Surface Of 200 Peso

紙幣の共通部分に関する説明については、20ペソの記事を参照してください。20ペソの記事は以下にあります。

200ペソの表面に描かれている肖像画は、ディオスダド・マカパガル(Diosdado Macapagal)という人物でフィリピンの第9代大統領にあたり、第三共和国として考えた場合は、5代目大統領となります。

彼は、1910年9月28日にフィリピンのパンパンガ州ルバオで生まれました。

1933年にフィリピン大学(University of the Philippines)で芸術の準学士を取得したの地に、1936年に聖トマス大学(St. Thomas University)で法学の学士を取得し、弁護士となります。第二次世界大戦後は外務省に務め、1946年に法務担当外務次官補になりました。

1947年には英国との交渉のチーフを務め、さらに1948年にはワシントンD.C.にある駐米フィリピン大使館の二等書記官に就任します。ここまでは、政治家というよりは公務員という印象を受けます。

実は、彼には変わった経歴があります。それは、彼が農村のスラム街出身であることです。しかし彼自身が優秀だったこともあり、有力者の援助を受けて教育を受け続けることができたのです。このような経歴を持っていることから、「庶民の擁護者(ようごしゃ)」と呼ばれることがあります。

そして、ここから政治家として歩んでいきます。1949年に、フィリピン国会の代議院議員としてパンパンガ州の第一区から選出され、1957年まで下院議員を務めます。彼は自由党に所属していましたが、1957年から1961年まではナショナリスタ党のカルロス・ガルシア大統領の下で副大統領を務めています。

1961年の選挙では、進歩党と協力してガルシア大統領と対立します。そして彼は、政治的腐敗と戦うことを公約に掲げたことで、総選挙において55%の得票率を得て、大統領に当選します。

しかし、就任後に贈収賄の抑制やフィリピン経済の活性化を目標に掲げたものの、ナショナリスタ党員の多い上院と下院に反対されることとなります。そして、1965年の総選挙ではフェルディナンド・エドラリン・マルコス(Ferdinand Edralin Marcos)に敗北して退任します。

退任後は、1972年に憲法制定会議の議長に就任し、1973年に憲法草案を起草します。そして、1997年4月21日に死去し、タギッグにある英雄墓地に遺体は埋葬されました。

彼の名は、クラーク国際空港(Clark International Airport)の旧称として、ディオスダド・マカパガル国際空港(Diosdado Macapagal International Airport)という名で使用されていました。

また、彼は2回結婚しており、2人の妻との間に子供が2人ずついます。そして、2人目の妻との間に生まれた娘グロリア・アロヨ(Maria Gloria Macaraeg Macapagal-Arroyo)が、後に同じくしてフィリピン大統領となりました

次に紙幣の左右に印字されている

DECLARATION OF PHILIPPINE INDEPENDENCE
KAWIT, CAVITE 12 JUNE 1898
フィリピンの独立宣言
1898年6月12日 カビテ市カウィット

EDSA PEOPLE POWER II JANUARY 2001
ピープルパワー2
2001年1月

OPENING OF MALOLOS CONGRESS
BARASOAIN CHURCH, 15 SEPTEMBER 1898
マロロス会議の開会
1898年9月15日 バラソアイン教会

とそれに付随するイラストについてです。

フィリピンの独立宣言
1898年4月にスペイン・アメリカ間で米西戦争が勃発しました。これは、マカパガルが生まれる前の歴史になります。

この米西戦争によって、香港に亡命していたエミリオ・アギナルド・イ・ファミイ将軍(Emilio Aguinaldo y Famy)ら指導部が米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たし、1898年6月12日に独立宣言を発布することになります。そして、アギナルドが臨時政府の大統領に就任することとなりました。

ピープルパワー2
2001年に起こった出来事で、エドサ2(EDSA Revolution II)とも呼ばれます。マカパガルとは、まったく関係ない出来事に思えるかもしれませんが、実は娘のアロヨが関係しています。それは、2001年1月20日にジョセフ・エストラーダ大統領(Joseph Estrada)が汚職でその座を追われることなった際に、エドサに結集した人民の力を得て、当時副大統領であったアロヨが新大統領になったからです。

マロロス会議の開会
フィリピンの独立宣言の後、1898年9月10日にマニラ近郊のブラカン州マロロスが臨時の首都となりました。そして、9月15日にはフィリピン人の代表による議会がこの地で発足されました。こちらも、マカパガルが生まれる前の歴史になります。

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2. 200ペソの裏面

Back Of 200 Peso

紙幣の表面と同様に、裏面にもフィリピン語で紙幣金額が分かるように、

DALAWANDAANG PISO
200ペソ

と印字されています。

そして、地図と一緒にサルと丘が印刷され、地図のそばには

Bohol Chocolate Hills
ボホール島 チョコレートヒルズ

と印字がされています。

ボホール島は、セブ島とレイテ島の間、紙幣に印刷された地図上の丸印に位置します。

Bohol Chocolate Hills

そのボホール島の中心に位置するチョコレートヒルズですが、高さは30mほどしかなく、円錐形の丘が1,000個以上も連なっています。

また、この丘のほとんどが珊瑚礁からなる石灰岩でできているため、木が育たず草のみに覆われた状態にあります。そのため、乾季になると草が枯れ茶色の丘へと変化することから、「チョコレートヒルズ」という名前が付きました

次にイラストのサルですが、

Tarsier
Tarsius Syrichta
ターシャ
フィリピンメガネザル

と印字されています。

このターシャは、ボホール島に生息する世界最小のメガネザルで絶滅危惧種に指定されています。目が大きいというかわいらしい特徴と体長約10cmほどしかないことから、簡単に持ち帰ることができため、密猟が横行したことが絶滅危惧種に指定された理由です。

Tarsier Tarsius Syrichta

また、人間以上に繊細な性格なため、ストレスがかかると自ら木などに頭をぶつけて自殺してしまう習性があります。そのため、観光客が直接ターシャに触れることを禁止しているだけでなく、脅かさない、大きな声を出さない、木を揺らさない、カメラ撮影の際にフラッシュを使わないなど、数多くの注意事項があります。